大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

岐阜地方裁判所 昭和41年(わ)188号 判決

主文

被告人を懲役三月に処する。

この裁判の確定した日から一年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用中、鑑定人脇坂行一に昭和四二年四月一七日および同四五年一月一四日支給した分を除き、その余の費用を被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は名古屋商科大学商学部商学科(会計学専攻)三年に在学し、同校応援団クラブに所属していた者であるが、昭和四〇年四月一二日(月曜日)正午過ぎころ、名古屋市昭和区広路本町一丁目一六番地所在の同大学付属高等学校校庭内で、各種クラブ員等が夫々所属するクラブへ加入するよう新入学生を勧誘していた際、同校庭内体育館西側付近で、同大学合唱団クラブ員、右学部産業経営学科四年生、敷根元紀(当時二四年)が先に声を掛けて勧誘していた新入学生の一人に対し、被告人があとから声をかけて応援団クラブへ加入するよう勧誘したことから、被告人と右敷根との間に口論を生じ、憤慨した被告人は矢庭に革靴履きの右足で同人の左下腹部を一回蹴り上げ、同時に左手拳で同人の右側頸部を突く等の暴行を加え、よつて同人に左下腹部、右側頸部の各皮下組織ないし筋肉内血管網破綻の傷害を負わせたものである。

(証拠の標目)〈略〉

(自白調書の証拠能力についての判断)

被告人は第六回、第九回各公判期日において、被告人の司法警察員に対する供述調書は約六時間に亘る夜間の取調のうえ、警察官から罰金刑で事済みになると聞かされたので署名指印したもの、検察官に対する供述調書は右警察官の言葉を信じた結果、署名指印したものであると供述しているので、右各供述調書については弁護人の証拠とすることについての同意があるにもかかわらず、その証拠能力の有無が一応問題となるのであるが、検察官に対する供述調書は司法警察員に対する供述調書が作成されてから約一四ヶ月後に行なわれた取調に基き作成されたものであり、しかも被告人の身柄はいずれの場合にも不拘束であつたのであるから、前者の取調の後者に対する影響は明らかに遮断されていると認めるのが相当である。従つて被告人の検察官に対する供述調書は任意かつ適正に作成されたものであり、その証拠能力を認めることができる(被告人の司法警察員に対する供述調書については、証拠として挙示する必要を見ないので、その証拠能力の有無については判断しない)。

(傷害致死の訴因に対し、傷害の責任のみを認めた理由)

本件公訴事実は大略前認定の事実に引き続き、敷根元紀(以下元紀という)が前記各傷害により昭和四〇年四月一五日(木曜日)午前三時二〇分ころ、愛知県一宮市四ツ峰町二〇番地敷根政敏方において失血死した事実を掲げており、右事実は元紀の右側頸部の皮下出血が死亡の直接の原因となつたとの点を除いては、前掲各証拠および司法巡査ら作成の捜査報告書によりこれを認め得る。しかしながら当裁判所は次に述べる理由により、右死亡の結果については被告人に責任を問い得ないものと考える。

一、被害者元紀が先天的に中等度の血友病に罹患しており、同人の死亡については右の病気が重要な影響を及ぼしたものであること

前掲各証拠および第二回ないし第四回公判調書中、証人敷根通恵の各供述部分、証人隅部乕夫に対する当裁判所の尋問調書ならびに京都大学医学部教授脇坂行一作成の鑑定書によれば、元紀が先天的に中等度の血友病に罹患していたこと(血液凝固の第八因子の欠乏する血友病Aか、同第九因子の欠乏する血友病Bかは不明)、同人の血管壁には何ら脆弱な点はなく、通常人と変りのないこと、従つて同人の前記各皮下組織内血管網破綻は通常人にも発生し得るものであるが、通常人の場合、自然の止血機構により外見に現れぬうちに止血するものであること(なお、この程度の傷害でも人の生理的機能に障害を生ぜしめるものであるから、刑法二〇四条の「傷害」というを妨げないものと解する)、我が国における昭和四二年の血友病(AおよびB)患者の頻度は男性二三、九〇〇人に対して一人(同一〇万人に対し、4.18人)、男子出生数一三、一〇〇人に対して一人(同一〇万人に対し、7.63人)であること、被告人と元紀との間には本件以前全く面識がなかつたこと、右死亡の結果については血友病が最も重要な影響を及ぼしたものであり、前記の各創傷の程度では通常人であれば死亡するようなことは殆ど考えられないこと等の各事実が認められる。

二、被害者元紀の受傷から死亡までの経緯に、同人とその家族ならびに医師の不注意が介入したと疑い得ること

右一に掲げた各証拠によれば元紀が前認定のとおり受傷した後、名古屋市内の先輩の家を訪れて就職を依頼し、午後九時半ころ自己の運転する軽乗用車で愛知県一宮市内の自宅に帰つたこと、当夜は平常より口数が多かつたものの体の状態につき特別の訴はなく、試験勉強をして就寝したこと、翌四月一三日は昼ころ起きて洗面に行くとき顔色は平常より悪く腰部の疼痛を訴え、腹部を抱えるようにして歩き、母親通恵が検すると、元紀の左下腹部周辺に一寸薄赤い内出血が見られたこと、同日夕刻かかりつけの医師隅部乕夫が来診したとき、左そけい部に手拳大の出血斑が認められたこと、同医師は止血剤(トロンボーゲンとアドナの混合液)一本を注射したこと、同日午後七時ころには元紀は便所から出たところで失神したように倒れかかり、脳貧血と思われる症状を呈したこと、同日午後一二時ころには疼痛が激しいため、家族より鎮痛剤(パパスコ)一本の注射を受けたこと、同月一四日午前九時ころ隈部医師が来診し、元紀を検すると出血斑が前日より約三センチメートルづつ広がつていたこと、元紀が嘔き気を訴えるので、同医師は腹膜炎を疑い、前記止血剤の注射の外鎮吐剤(ボナミン)を与えたこと、同日午後二時ころになつても嘔き気が止まないので鎮吐剤の投与を受け、さらに同日午後八時ころには疼痛のため鎮痛剤の投与を受けたこと、同日午後一〇時ころ通恵が脈搏を測ると一分間約一六〇回あつたこと、同日午後一二時ころには脈搏が結滞し、元紀は頭がポーツとしてきたと訴え、このころには同人は大量出血のために循環不全、心臓衰弱に陥り、一般状態が極めて重篤になつていたと考えられること、同人の家族が隈部医師宅に数回架電したが通じなかつたこと、その間家族がヴイタ・カンファー三本位を注射し、近所の眼科の女医魚住某が静脈内注射を施したこと、元紀の姉千保子が車で隈部医師を迎えに行き、同医師の判断で山下病院の毛受医師をも迎えに行き、両医師が馳けつけたころには既に元紀の瞳孔は散大し呼吸が停止していたこと、右毛受医師が人工呼吸を行なつたがその効がなく、元紀は同月一五日午前三時二〇分ころ死亡したものと考えられること、ところで、血友病性出血に対して最も有効な方法は、血液凝固障害の原因となつている欠乏因子の補充としての輸血であり、止血剤等の薬剤療法によつて止血の傾向がなければ機を失せず欠乏因子の補充療法を実施すべきであることは現在学説上の定説となつており、室温で不安定な第八因子(血友病A)の補充は新鮮血でなければならないが、最近では抗血友病性グロブリン濃縮蛋白―ミドリや濃縮抗血友病性グロブリン蛋白などを静脈内に投与する方法も採られていること、これらの点につき隈部医師は、対症療法として輸血の効能を否定するのではないが、多量の出血でない場合輸血すればかえつて血圧を上昇させ、出血を促進することになるし、開腹して血管を結紮するにしても最後の手段として残しておきたかつたとの診断意見ならびに血友病は血液凝固性の減少に原因するというよりはむしろヴイタミンCの欠乏を一番の根本的特長としているとの見解のもとに前記のような治療方法を採つたこと、なお、元紀は四男子のうちの三男であり、兄弟はいずれも伴性劣性遺伝による血友病の負因を有していて、元紀も出生直後の手術、その後の腎臓出血時ならびに死亡時数年前における虫垂炎の手術時に隈部医師の手当を受けており、平生から自らならびに家族の者において右疾病につき認識があり、止血剤を常備し、日常不時の災難に対し努めて細心の注意を払つていたこと等の各事実が認められる。そして前記古田教授の証人尋問調書および脇坂教授の鑑定書によれば、元紀において受傷後安静を欠いた憾みのあること、隈部医師において元紀の顔色、脳貧血様の症状、嘔吐感(腹膜炎によるものではなく、出血多量のために脳の循環障害、酸素欠乏による嘔吐中枢刺戟、或いは出血血液の後腹膜内貯留による腹膜刺戟のため起きるもの)から重大な出血を判定し、輸血等の適切な手段を遅滞なく講ずべきであつたと推認できること、家族や同医師がなした鎮痛剤や鎮吐剤の投与は対症療法的であつて、かえつて危機感を低めたこと、家旅がヴイタ・カンファーを注射した時点では事態が不可逆に近いまでに至つていたのであろうが、これによりかえつて心臓を強め出血を促進したこと等の各事実がそれぞれ認められ、以上の諸事実によれば、元紀の受傷から死亡までの経緯には、同人とその家族ならびに医師の不注意が競合的に介入したものと合理的に疑う余地がある。

三、まとめ

右一と二の諸事実を総合すれば、元紀はひとたび受傷すれば、それが通常人であれば容易に治癒するような軽度の傷害であつても、重大な死亡の結果を招来するという極めて稀な病気の一である血友病に罹患していたもので、同人の死亡についてはこの血友病が最重要の影響を及ぼし、これに同人とその家族ならびに医師の不注意が加わつて不幸な結果を発生させたものと疑う余地が十分に存するのである。そして元紀が血友病に罹患していた事実を被告人が本件犯行当時知つていた、あるいは知り得べき状態にあつたと認められる証拠は全くない。従つて被告人の傷害の行為は、元紀の死の結果につき、自然的には一の原因として挙げるには足りるが、法律的には因果の連鎖においてはなはだしく遠隔で、及ぼす影響も微少であつて、刑法上の因果関係は肯定するのが困難であり、被告人に致死の点までの責任を負わせることは当を得ないとするのが法の理念に合する。従つて傷害致死の訴因に対し、傷害罪の成立のみを認めることとする。

(法令の適用)

被告人の判示所為は刑法二〇四条、罰金等臨時措置法三条一項一号、二条一項本文に該当するが、所定刑中、懲役刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役三月に処し、情状により刑法二五条一項を適用してこの裁判の確定した日から一年間右の刑の執行を猶予し、訴訟費用は、刑事訴訟法一八一条一項本文に従い主文第三項に記載のとおりその一部を被告人に負担させることとする。(平谷新五 岡山宏 太田幸夫)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例